今回は少し抽象的な話をしたいと思う。
今さらあらためて言う必要はないけど、人生は辛いことだらけ。
経済的に裕福になればある程度幸せな人生を送れるかもしれないけど、人生はお金が全てではないので、裕福な人でも実は逃げ出したいくらい不幸な人もたくさんいる。
幸せの基準
幸せの基準は本当に人それぞれで、ある時は幸せだけど、ある時は不幸、というように長い人生の中でもその時々でぜんぜん違うもの。つまり、最終的に幸せかどうかを判断するのは、死ぬ寸前で本人が判断しない限り、真実は誰も分からない。
周囲の人間が「あの人は幸せだったに違いない」と思ったところで、所詮は想像に過ぎないわけで、実際はめっちゃ無念だったかもしれない。残った人たちはそう思うことで自分の余生に悪い影響がないようにそう思いたいだけ、かもしれない。
そう考えていくと「幸せの定義」みたいなものがないと、他人が幸せかどうかなんて分かるはずもない。しかし、この「幸せの定義」というのがかなりのくせ者で、70億の人類がいるなら、70億種類の幸せの定義があるといってもいいくらい。
ある意味「幸せの定義って何?」という質問は「ナンセンス」な質問と言わざるを得ない。
ちなみに、心理学で有名なアドラーは、人が幸せを感じるポイントを3つ挙げている。
- 自己受容(自分を好き、自分を認める)
- 他者信頼(信頼できる他人がいる)
- 貢献感(誰かの役に立っている)
とはいえ、前述の通り、幸せの定義は多数決ではないので決められないというのが私の見解である。
さらに極論を言えば「誰かの幸せ」は「誰かの不幸せ」の上に成り立つものだし、自分が幸せなら他人が不幸でもいいのか、という論争の結論は永遠にでないだろう。
さて、以上の理由から、私は「幸せ」「不幸」という概念を極力使わないようにしている。ていうか、重要視しないようにしている。
なぜなら、すごくあやふやな概念だし、突き詰めると宗教的かつ洗脳的な胡散臭い感じになるし、そこを焦点に生きる人生に意味はないと思うから。
託されることに意味がある
私が生きる上で重要視していることは「託されること」と「託されたことを知ること」の2点。
誰かが自分に託した、「思い」「願い」「祈り」「命」「知識」「システム」「絆」「財産」「尊厳」、それを全力で守り抜く。そして、レベルアップさせて次世代の誰かに託す。
誰かに「託されてること」が簡単に分かればいいのだが、「託す人」は「託した相手」にあらたまって「これ君に託すよ」とは言わない場合が多い。だから託されアンテナをいつもビンビンに張っておくことも忘れてはダメ。
「託されること」で、個人においては、「生きる価値」がストンと腑に落ちて「生きる覚悟と生きる勇気」が湧いてくる。社会においては、いわば過去と未来のバトンのような役割を果たす。
例えば、私たちは親から命を託されている。
面と向かってあらためて言われることはないけど、私たちは命を託されたのだ。
私が生まれた時、親は何者でもない私の命を守るために必死に働いた。おそらくいろんな苦労があったに違いない。自分も2人の子供の親になって始めて親の気持ちが理解できた。おむつを変え、泣き止まない時は周囲にあやまり、病気になれば心配で心配でしかたがない。
笑っただけで大喜び、立ち上がって歩いただけで、嬉し泣き。
さらに、学校では熱心な先生から「知識」を託され、会社からは「システム」や「理念」を託されている。
また、奥さんにお金を稼いでくるように託されてるし、その逆で家事の大半を奥さんに託している。
そうやって助け合いながら私たちは充実した気持ちを得ることができる。
まとめ
託された思いを受け止めて、それを実現することが人生を豊かにする。とはいえ、思いを受け止めても実現できないこともある。しかし、あえて言えば結果は重要ではない。安っぽいスポーツマンシップみたいでイヤだけど、トライすることに意味があるのだ。
託されたから一生懸命がんばった。でもダメだった。その次にやるべきことは、次世代に託すこと。これをやらないと人類の進歩は止まってしまう。

明日から、よーく周囲を見渡してほしい。あなたの大切な人、勤務先の人、取引先の人があなたに託していることがあるかもしれない。
人生はこういう単純なことの積み重ねで好転していく。
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